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東京での服飾の道から、ものづくりの町での空き家対策NPOの設立へ。こだわりのアート気質が、地域の活性化に新しい息吹を与えている。

地元を飛び出してニュージーランドへ。服飾の道を目指して岡山から東京へ。そして故郷に隣接するものづくりの町での地域おこし協力隊。様々な出会いとつながりの中で、空き家対策での地域貢献をライフワークの第一歩として歩み始めている。

東京に行かれるまでの経緯はどのようなものですか?

広島県福山市の松永地区で生まれ育ちました。小・中・高と地元の学校に進んだのですが、高校は進学校でドロップアウトしてしまったんです。気持ちがグチャグチャになってしまって、リセットしようとニュージーランドのハイスクールに飛び出しました。
ハイスクール卒業後は大学に進むことも考えたのですが、芸術好きの母親の影響もあり、服飾の道に進みたいと思うようになりました。
東京の服飾専門学校も考えましたが、岡山の専門学校にデニムジーンズ科というところがあって、そこだと本格的なミシンも揃ってるので、いいなと思って入学しました。在学中には独学で製図なども学んでいました。

専門学校の卒業後は、人間の皮膚に近いデザインをされる東京のデザイナーさんのところに行きたいと思ってアプローチしましたが、2年間くらい断られ続けたんです。
ならばまずはお金を貯めようと思い、1年間福山で営業の仕事をしていました。その営業の仕事は、入社時の社長面接で「1年で辞めてもいいですか」と聞いたくらいのものだったのですが、「やれるもんならやってみろ」と呆れながらも採用してもらいました(笑)。
体育会系の営業仕事だったので、結果が出なければクビというところだったのですが、ありがたいことに営業成績全国トップ3の先輩方が揃っていて、すごく鍛えられました。
そして1年後、会社から「残ってくれ」と言っていただけるくらいになりましたが、やはり東京で服飾の道で勝負したいと思い退職を決意しました。東京での伝手もなく、給料がもらえるかすらよくわからない状況でしたが(笑)。

東京から府中市に移住するまでの経緯はどういうものですか?

東京では毎日4時間睡眠の生活でした。朝4時に起きてバイトに行って、24時過ぎまで仕事をしていました。
福山時代に結婚した妻は、高校の同級生だったのですが、「スーパードクターのところで働きたい」という思いを持っていたので一緒に上京することにしました。
東京で子供ができたことがきっかけで、家庭に向ける時間を意識するようになりました。始めはお金を稼いで生活を楽にすることが家族を幸せにすることだと考えていたのですが、3年くらい経ったときに妻のほうから「東京の暮らしは限界だ」「これは家族ではない」と言われて地元に帰ることにしました。東京にいたのは結局22歳からの3年間でした。

広島に帰ると決めてまず思ったことは、「仕事はどうしよう」ということでした。両方の実家が近いということもあり、子育てについては問題ないと思っていましたが、収入をどう確保しようかと思ってハローワークにも行きました。
すると、ハローワークに府中市の“地域おこし協力隊”というのがあったんです。なんだと思って府中市役所に電話をして内容を聞き、すぐに応募することを決めました(笑)。
妻にもすぐ賛同してもらえました。妻の実家の家業を継ぐという選択肢もあったのですが、私自身、協力隊でいろいろな経験を積みたいという思いもありました。

協力隊の活動がどのようにNPOの設立につながったのですか?

東京では土日などを利用して人に会ったり勉強会に行ったりしていたのですが、地域貢献というものに全く触れない生活でしたし、自分の故郷のことを考えるという発想もありませんでした。
もちろん、自分に地域貢献できる力があると思っていたわけではありません。協力隊の制度要項を見ると、活動範囲が自由で人に会いに行ったりするのが仕事で、それが地域貢献につながれば素晴らしいと感じました。
府中市の協力隊では特に決まった仕事はありませんでした。それなら自分で仕事を作らなければと思い、いろんな人に会いに行きました。木工職人に会いに行ったり、地域の祭りを手伝ったり、無農薬農業をしてみたりとか、空き家バンクへの問い合わせの対応をしたり、道の駅ができるときに食の発掘をしてみたりと、様々な活動もしていました。

協力隊として活動を始めて1年が経過した頃、不動産関係の方に出会っていろいろお話をするようになり、このまま小さな活動をしていても大きな貢献はできないと考えて、リーディングファシリテーターという資格の勉強を始めました。
その勉強会に参加しているときに、いろいろな地域の人に出会い、地域の空き家問題とか人口減少とかを議論するようになりました。そして、みんな同じ問題を抱えているけど、「自分たちで何かやるしかないよね」という結論に至って、仲間とともにNPO法人を作ろうと決めたんです。
自分自身が引っ越すとき、空き家や古民家に簡単に暮らせると思ってましたが、情報のギャップがありうまくいきませんでした。そのとき、空き家バンクという制度のもろさも少し感じました。これは貸す方も住む方にとってもよくないなと。

不動産業が扱わない物件が放置されていて、今は法律で解体命令が出るかもしれないという状況の中で、その情報を開示するという行政の取組への意義も感じていたし、将来的な人口減に対してのアプローチをしたいという思いで、『NPO法人アルバトロス』を設立しました。
空き家に移住者を呼び込むのが活動の中心ですが、それが目的ではなく、20年先のコミュニティの継続をコンセプトにしていて、空き家を埋めるというよりも地域を埋めるという意識で活動しています。

瀬川百貨店プロジェクトとの関わりはどのようなものですか?

幕府天領で、銀山街道の宿場町、地域金融の中心とした府中市上下地区は「白壁の町並み」で有名です。大正時代に建てられた翁座という娯楽施設(芝居小屋・映画館)があり、協力隊になった当初は、翁座を解放する日にガイドなどのお手伝いをしていました。
そのような中、府中市を通して、広島県の移住促進の取組の中で、空き家となった旧豪商店舗・瀬川百貨店をクリエイティブな若い移住者が集まる拠点にしていくプロジェクトの話が入ってきました。
NPOで取り組ませていただくことにし、東京での「人材マッチングセミナー」や、上下地区での「小商いメッセ」を通じて、県内外の様々な分野の方々とつながりができ、各種メディアからの取材や移住希望の訪問者もたくさんお迎えし、そして上下で活動する移住者の方にも来ていただくことができました。

地元のまちづくり協議会や商工会のみなさんに、サポートいただいたり指導いただいたりしたお蔭だと思っています。
東京から我々の活動に連携してくださる方もできて、瀬川百貨店を拠点とした活動は少しずつ広がりをもってきていますので、今後もNPOの活動のひとつの柱にしていきたいと思っています。

府中市での生活の魅力を教えてください。

人口4万人の府中市は、田舎過ぎず都会過ぎずの「ものづくりの町」です。
一部上場企業も4社ありますが、私自身は中小企業の方々がつくってきた町だなあと感じます。上下は職人の町というイメージですね。府中市は石を投げれば経営者に当たるくらいの感じで、起業家精神に溢れています。おせっかいというか世話焼きな人が多いんですよ(笑)。
仕事については、府中市内で雇用も多くありますが、接する人口が多い福山市や尾道市に出たりする人も多いようです。
自然環境も豊かで、ちょっと車で出れば、清流での川遊び、三郎の滝の滑り台、山遊びなどもできて、生活圏の中に都市と自然が両立しています。子供を自由に走り回らせる場所がすぐ近くにたくさんあるのは本当にいいことだと思っています。東京ではなかなか簡単にはできないことですね。
買い物は府中市内のスーパーか野菜の朝市ですね。朝市はほんとすごいですね。安いです。
こっちに戻ると、物欲がなくなり、むしろ食べ物などにどんどん気を使うようになったのですごくありがたいですね。

移住を検討している方へのメッセージをお願いします。

府中市には、手に職を持っている移住者、スキルを持って府中市と東京で2拠点活動してる人、育児や食の環境を重視して移住してきた方なども多いです。
私から移住を検討している方へのメッセージは、移住することが目標にならないようにということです。移住した後の生活がより豊かになり、仕事や活動でより飛躍することを目標にしてほしいと思います。
移住は人生の中の難しい問題だと思いますが、よりステップアップのための移住、チャレンジに溢れる移住は素晴らしいことだと思います。
ものづくりの町・府中市には、新しい人材を受け入れる風土があると思いますので、ぜひ一度遊びに来てみてください。

藤原幸大さんのある日の過ごし方
7:30

起床
家族で朝食

8:30

出社
アルバトロス事務所へ

9:00

上下町へ移動

9:40 瀬川百貨店を開ける
瀬川百貨店でお客さんの対応をしながら、片付けや、事務作業

12:30

昼食
上下町の屋台でお好み焼きを食べる

13:00

イベントの広報活動
商工会、資料館、商店をまわる

15:30

府中市内へ移動

16:30

アルバトロス事務所
ブログ、ホームページ等作業

19:00

アルバトロス定例会
活動について話し合いを行う

21:30

解散

22:00

帰宅

藤原 幸大さん

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