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INTERVIEW

廃業からの復活をめざし酒蔵をリノベーション。どぶろくとワイン作りをスタートさせ、北広島町大朝商店街の活性化をめざす。

福光 寛泰さん

山口県 → 広島県
2016年
家族3人暮らし。(妻と4歳の子ども) 1971年生まれ 四代目・福光酒造蔵元

11年前に廃業した家業の酒蔵・福光酒造を復活させるべく、2015年に四代目蔵元に就任。人生の大半を過ごした山口県から北広島町大朝への移住を決めた。2017年末のどぶろく醸造と2019年末のワインの醸造をめざして奮闘中。

山口から広島に移住するまでの経緯を教えてください。

生まれてから10歳までは広島市内にいましたが、父親の転勤で山口県光市に移住しました。現在も両親は光市にいます。大朝は母方の里。母方は医者の多い家系で曾祖父も祖父も代々医者でした。福光酒造は曾祖父が1933年(昭和8)に創業。曾祖父はこの近所で開業医としての医師でありながら酒蔵を経営していたんです。

子どもの頃から夏休みには大朝の祖父の家に泊まりに行き、この酒蔵で蔵人に遊んでもらったり、叱られたりして過ごした思い出があります。私は三人兄弟の長男ですが、誰も医者にはならなかったんです。父は私に「自分の好きなことをして、自由に生きていい」と言ってくれたおかげもあり、学生時代は山登りや旅行三昧で、大学卒業後もアルバイトをしながら旅行を楽しみ、自由きままに暮らしていました。

そんな私を見かねた祖父が、「医者にはならなくていいから、せめて酒造りをしてくれないか。それが唯一の願いだ」と言ってきました。尊敬する祖父の言葉なら、と山口県岩国市の村重酒造株式会社の酒造りを見習いに行きました。22歳のときです。
その後、独立行政法人酒類総合研究所の講習生として勉強。その時知り合った講習生の中に、台風19号により甚大な被害を受け、休業した実家の酒蔵を復活させるために勉強している人がいたんです。
彼から「実家の酒蔵の再建を手伝ってもらえないか」と声を掛けてもらい一緒に佐賀へ。酒蔵を修復し、酒ができるまでの態勢を整え、その年の冬には順調に日本酒を出荷できるようになりました。そこからまた村重酒造へ戻り、まさに「武者修行」という言葉がぴったりくるほど、必死になって技術を習得しました。酒造りには、米を蒸し、洗い、麹をつくり、仕込むといった基本的な作業に加え、発酵度合いの管理など職人としての技術力が求められます。

複雑な技術をマスターしていくためには、粘り強く研究をして、技術を身につけていく必要がありました。約17年間でそうした技術を学び、2015年、福光酒造を再興するためにお世話になった村重酒造を退職しました。

退職するまでどんな仕事をされていましたか?

以前の勤務先では、副杜氏を勤めていました。酒造りはもちろんのこと、商品企画、営業、デザイン、イベント…、いろんなことをさせてもらいました。印象的だった仕事は直径5m、日本一大きな杉玉を作り、地元で話題にもなったこと。それに春と秋、岩国の第三セクターである錦川清流線の乗車券に、岩国市にある5つの酒蔵の酒や、お弁当をセットにした企画列車もたいへん好評でした。社内でも古株だったせいか、自由にやらせてもらえましたね。
今思えば、佐賀の酒蔵の復興を手伝ったこと、いろんな企画を実現できた村重酒造での経験は、現在の活動のベースになっていると思います。

大朝への移住を決めたきっかけは?

村重酒造で働いていた頃、福光酒造の景気が良くないことは耳にしていました。折しも当時は焼酎ブーム。日本酒の人気は下降線をたどる一方でした。そんな頃、福光酒造を支え、杜氏も兼ねていた叔父が倒れて経営は困難に。そして2006年、酒類製造免許を返納し、やむなく福光酒造は廃業となりました。
「福光酒造を継ぐために酒の道に入り厳しい修行を積んできたのに、廃業してしまったら、自分の人生はいったい何だったんだ。」この時ばかりは、ひどく落ち込みました。
しかし、ずっと酒造りに関わり、生業として生きて行くことを決めたからには、「福光酒造の復活」というキーワードはずっと頭の隅にありました。

自分自身、もっと日本酒を好きになりたかったし、もっと楽しみたいと思えるようになり、そしてそれを多くの人に広めたいという思いが強く湧いてきたんです。大朝に帰る度に、「福光酒造がなくなって寂しい」と声を掛けてくださる人もいて、そうした声に背中を押され、これからここで一生酒造りをしていく覚悟を決め2016年、住民票を大朝に移しました。

福光酒造復活のビジョンを教えてください。

まずは建物の修復作業に取りかかりました。築140年と古い酒蔵の構造補強を行うとともに、外壁、内装を直し、2階の部屋も少しずつ片付けました。幸い、修道大学の地域活性のゼミの学生達が片付けを手伝ってくれたので大変助かりました。11年間、廃墟だった福光酒造に灯りがともり、再び笑い声や元気な声が聞こえ、息を吹き返したようでした。これは地域の方にとっても大きな喜びになってくれたようです。酒類製造免許を再取得するには、販売量など様々な条件が必要なので、今は日本酒を造ることができないんです。だから当面はどぶろくとワインを造ろうと思っています。そのため2016年春に、荒れ地にトラクターを走らせ整地して、ワイン用のぶどうを植えました。順調にいけば2017年の秋には、酸味のある野性的な味わいのぶどうが実るはずです。

さらに、2017年はこの酒蔵の水と大朝の米を使って、どぶろくを仕込む予定です。北広島町にはどぶろく民宿がすでに2カ所あるのですが、福光酒造のどぶろくは度数を低めにし、親しみやすい味にし、他とは差別化を図りたいと考えています。そして秋には1階にカフェを作り、どぶろくや簡単な料理を味わいながら、大朝を訪れた人や地域の人が交流できる場にしたいと考えています。ちなみにカフェのメニューを自分で作れるようにしたいので、今は料理の勉強もしているんですよ。このような田舎で酒を飲むからには宿泊施設も必要で、いずれは2階をゲストハウスにできればと思っています。かつて福光酒造が造作っていた酒は「朝光」という銘柄でした。だから私が造るどぶろくにも「朝光」の名をつけ、このどぶろくを中心に人が集まる酒蔵、人が集まる大朝にし、宿場町として栄えていた頃の活気を取り戻していきたいのです。

移住について家族の反応はいかがですか?

現在、家族が暮らしているのは山口県岩国市。妻と4歳の子どもがいます。2016年から,大朝と岩国市を行き来する生活を続けています。妻には結婚前から、大朝での酒蔵再興を将来のビジョンとして、ずっと話していましたので、私の計画を理解し、応援してくれています。そして、一緒におもしろがってくれていますよ。大朝への移住も楽しみにしているようです。今はまだ事業が始まっていませんが、事業が順調に進んである程度のところまでいけば、いずれは家族みんなで大朝へ移住したいですね。自然と人が豊かな大朝は、育児にも大変良いと思います。

大朝の魅力はどういったところにありますか?

大朝は、広島市内から高速道路を使えば1時間ほどで着きますし、車を15分走らせた千代田には、病院やスーパーなどひと通りのインフラが整っている。それに寒曵山や龍頭山といった美しい山、江の川、それに良質な温泉もたくさんあります。この商店街もそうなのですが、古い建物をリノベーションして別の新しい施設や商業施設として活用しているところが多いのも特徴で、町全体がIターンやUターン者を受け入れています。酒蔵の隣には旅館をリノベーションしたチャレンジショップ「つるや食堂」があり、移住してきた方などが日替わりでランチを提供されています。何か志があれば、力を貸してくれる人がいる、そんな地域ではないでしょうか。実際30代、40代の子育て世代も増えていると思います。

大朝の人は優しく、人懐っこい人が多い気がします。きっと、山陰と山陽を結ぶ宿場町として栄えた歴史があって、商売人が多かったせいでしょうね。知らない人でもすぐに受け入れてくれるし、何かあるごとに声を掛けて、心配もしてくれるんです。夏に汗だくになって作業をしていたら、近所の人が冷やしたスイカを差し入れに持ってきてくれたりして、私たちを歓迎してくれていることを肌で感じます。

大朝へ移住を考えている方へメッセージをお願いします

よく言われていることではありますが、迷ったらまずやってみることではないでしょうか。人生一度きりなのですから。いきなり移住をするのは難しいかもしれないので、試しに1週間でも1ヵ月でも住んでみる、現地の情報を現地で仕入れるなど、まずは行動を起こすことから始めてみたらいいと思います。大朝には短期滞在用のお試し住宅もあります。広島や仕事に対して何かしらの思いがあるなら、アクションを起こす価値はあるのではないでしょうか。

平日

6:30 起床・朝食
8:00 畑の草刈り、ブドウのチェック
12:00 昼食
近所の「かぁちゃん餃子」の500円弁当がおすすめ
13:00 打合せや情報収集
ワインやどぶろくの勉強
16:00 蔵の片付け、掃除
田原温泉5000年風呂で入浴

19:00 地域の方とお酒を飲みながらコミュニケーション
22:30 就寝

休日

8:00 起床・朝食
10:00 近所の温泉へ
12:00 昼食
13:00 寒曳山へ登山や龍頭山へドライブ
18:00 夕食
22:30 就寝
福光 寛泰さん

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