しまなみサイクリングが日常に。「憧れ」と「暮らしやすさ」を叶えた移住
穏やかな瀬戸内海や、深い緑に包まれる中国山地。豊かな自然を肌で感じられるサイクリングコースが、広島県には62コースも整備されています。
なかでも尾道市と愛媛県今治市の島々を結ぶしまなみ海道は、国内外から多くのサイクリストが訪れる「サイクリストの聖地」。瀬戸内海の島々が織りなす絶景はもちろん、地元の人々との温かな交流も魅力です。
広島県南部に位置する三原市は、しまなみ海道へのアクセスの良さと住みやすさを兼ね備えたまち。そんな三原で「サイクリングを特別なレジャーではなく、日常の一部にしたい」という憧れを実現しているのが、東京から移住した佐藤梓さんです。
仕事はどうなるのか、地域に溶け込めるのか、自動車を持たずに生活できるのか…。さまざまな不安と向き合いながらリサーチを重ね、最後は勢いで移住を決断。彼女のお話には、「夢の暮らし」を叶えるためのヒントが詰まっていました。
佐藤 梓さん
コロナ禍が「いつか」を「今」に変えた
東京に暮らし、フリーランスの同時通訳として活躍していた佐藤梓さん。多忙な日々を送っていましたが、コロナ禍で海外との行き来が途絶えると、仕事は一気にゼロになってしまったといいます。「これからどう生きていこう?」。未曾有のパンデミックがもたらした急激な環境の変化に、将来の不安を覚えた佐藤さん。しかし、突如現れた空白の時間は、自分のやりたいことを見つめ直す機会となりました。
「サイクリングや中国語の勉強、ピアノなどの趣味を楽しみながら、ゆったりとした生活を送りたい」。そんな自分の本音に気付いた彼女は、常に慌ただしい東京を離れ、環境そのものを変えたいと考えるようになります。
そこで思い出したのが、以前訪れたしまなみ海道でした。「島々が連なる瀬戸内海の美しい景色を眺めながら自転車で走ったときの感動が忘れられなくて。地元の方々も、のんびりしていて朗らか。“引退後に瀬戸内で暮らすのもいいかもな”という漠然とした憧れを、“今、叶えてもいいんじゃないか?”と考えるようになったんです」。
自転車生活、自然、利便性。すべてがそろう三原
移住候補地として挙がったのは、しまなみ海道沿いの尾道市をはじめ、長野県、北海道、神奈川県真鶴町など。佐藤さんが重視した条件は「自転車で走って気持ちがいいこと」「自然が身近でありながら日常生活は不便でないこと」、そして「自動車を持たずに暮らせること」でした。
「尾道もとても魅力的だったのですが、車なしで生活するには少しハードルが高いのかなと感じました。私にとっては、毎日の生活を考えると、おしゃれなカフェよりショッピングモールが徒歩・自転車圏内にあることのほうが大事だったんです」。
次に思い浮かんだのが、尾道市の隣町・三原市でした。「初めてしまなみ海道へ遊びに行ったとき、尾道のホテルがどこも満室で、たまたま三原に宿泊したんです。そのとき、三原港からしまなみ海道が通る生口島(尾道市瀬戸田町)まで、船で30分ほどで渡れることを知りました。三原港はJR三原駅から徒歩5分の場所にあり、駅には新幹線が停まる利便性の高さも印象に残っていました」。
そんな折、都内で開催されていた広島県の移住フェアに参加。各市町のブースを巡り、三原市の担当者とも話した結果、現地へ下見に行くことを決めました。「他県の候補地も旅行がてら見てみましたが、やはり最初に惹かれたしまなみ海道の近くに住みたいという気持ちは変わりませんでした。」
移住前に計2回、三原を訪れたという佐藤さん。「現地で確認したのはまず、三原駅周辺で良い物件が借りられそうかどうか。それから、自分にとって必要なインフラが、車を持たなくてもアクセスできる範囲にあるかを重視しました」。
実際にまちを歩いてみると、三原駅から徒歩・自転車圏内にショッピングモールやスーパー、ドラッグストアをはじめ、佐藤さんにとって「必要なインフラ」である図書館やコワーキングスペース、カフェ、さらにはストリートピアノまでそろっていました。「求めていた施設が駅周辺に集約されていて、東京よりも暮らしやすいかもしれない」。三原移住が少しずつ現実味を帯びていきました。
不安に向き合いながら、本当の気持ちを大切に
移住したい気持ちが強まる一方で、仕事への不安はなかなか拭えなかったといいます。「通訳の仕事がリモート化したことは、東京を離れる後押しになりました。でも同時に、コロナ禍が収束してもこの働き方が続くのかは分からない。現地通訳が必須の仕事は、地方に行ったらどうなるんだろうと毎日考えていました」。生活費を計算し、どのくらいの収入があれば暮らしていけるのかを何度もシミュレーションする日々が続きました。
また、大阪出身・東京在住の佐藤さんにとって、三原はまったく縁のない土地。地域のコミュニティで良好な人間関係を築けるかどうかも気がかりでした。しかし、その心配は徐々に和らいでいったといいます。「下見に行って移住サポーターや市役所の方々と話す中で、なんとなく広島・三原の空気を感じました。明るくフレンドリーだけれど踏み込みすぎず、適度な距離感を大切にする土地柄というか。それが自分の性格や好みに合っている気がしたんです」。
そうして、佐藤さんは一つの答えにたどり着きました。「懸念事項を事前に全部解消するのは無理なんだと気付いて。不安よりも、行きたい気持ちを大切にしようと決めました。もし、どうしても乗り越えられないことが起きたら、そのときは東京に戻ればいい。単身移住で身軽でしたから」。ワーストケースを想定し、貯金で生活できる期間を確認したうえで、佐藤さんは2024年1月、三原に移住。新たな暮らしをスタートさせました。
いつでもしまなみ海道を走れるという贅沢
「実際に移住してみて、いつでもしまなみサイクリングに行けるようになりました」と微笑む佐藤さん。「仕事の閑散期は、平日に生口島から大三島までを自転車で走っています。島内のコワーキングスペースで仕事をして、カフェでひと息つき、サイクリングを楽しんだあとは、島の銭湯へ。そんな過ごし方を思い立ったときに、それも観光客が少ない日にできるのが三原暮らしの魅力です」。
しまなみ海道の島々には尾道からアクセスするのが一般的ですが、佐藤さんは「三原から船で生口島に渡るほうが移動時間を短縮できて、現地でゆっくり過ごせます」と話します。「船の便数も1日12便あって、思った以上に便利なんですよ」。
しまなみ海道へのアクセスの良さに加え、市街地と自然の距離が近いのも三原の特徴。市内でも絶景サイクリングを楽しめるといい、「おすすめは筆影山や竜王山。三原駅から瀬戸内海沿いのシーサイドラインを走り、竜王みはらしラインを登った先に、しまなみ海道を一望できる展望台があります。コーヒーやお弁当を持って、ぜひ訪れてみてほしいです」と教えてくれました。
地域での活動やお祭りを能動的に楽しむ
地域との人々から「一緒にやろう」「手伝ってほしい」と声をかけられ、まちづくり活動に取り組むほか、三原の一大イベント「やっさ祭り」には踊りの練習から参加。「東京では、地域との関わりが暮らしの中にほとんどありませんでした。移住後も、最初は地域での活動やお祭りに関わるつもりはなかったんです。でも地方では、自分の取り組んだことがまちに影響して、コミュニティの一員である実感が持てる。それがうれしいんです」と佐藤さんは語ります。
移住前から市や県、まちの人とつながりがあったことも、移住後の安心感につながったそうです。「移住フェアにたくさん足を運んで本当によかったと思っています。そこに暮らしている人と話すことで、関係を築けるだけでなく、まちの雰囲気も感じられると思います」。
また、移住する前と後のギャップを減らすための工夫について尋ねると、こんな答えが返ってきました。
「“これだけは絶対に無理!”というものは、誰にでもあると思うんです。私の場合は、虫。島暮らしも検討しましたが、ムカデが当たり前のように出てくると聞いて断念しました。どうしても苦手なことは、徹底的に事前確認しておくのがいいと思います。私もリサーチ段階で、“虫はどうですか?”といろんな人に聞いていました。三原の中心市街地に決めたのは、虫が少ないという理由もあります」。
広島だからこそ広がった、仕事の選択肢
移住後、佐藤さんは思ってもみない仕事の機会に恵まれました。「本業である通訳の仕事では、昨年が戦後80年の節目だったため、平和や核廃絶に関わる案件を多くいただきました。県内には同時通訳者が少ないこともあり、半導体メーカーや自動車メーカーなどからの引き合いもあります。東京のクライアントとの業務も継続しており、リモートと月1回程度の出張で対応しています」。現在は、東京在住時と同程度の収入を維持できているといいます。
自身のスキルを活かせる場所への移住を望んでいたという彼女。週末は海外旅行者向けのサイクリングガイドとしても活動しています。「しまなみ海道は外国人観光客が増加していますが、語学対応はまだ十分とはいえません。英語と中国語でガイドしながら、サイクリングを通して、瀬戸内や三原の魅力を国内外の人に伝えていけたらと思っています」。
「知る」ことが、一歩を踏み出す土台になる
佐藤さんが三原で手に入れたのは、瀬戸内でのサイクリングが「日常」になる暮らしでした。仕事や人間関係などの不安要素もありましたが、実際に飛び込んでみると仕事の幅は広がり、地域の活動に能動的に関わるようになるなど、ポジティブな変化も生まれています。
大切なのは、 「ここで暮らしたい」という気持ちに素直になり、勇気を出して一歩踏み出すこと。事前にまちの特徴や人、空気感を知ることが、その土台となります。移住を考えているなら、まずは相談窓口や移住フェアに気軽に参加してみるのも一つの方法。少しの行動が、憧れの暮らしを現実に近づけてくれるはずです。