まちの「あったらいいな」から生まれた、山あいに人が集まるベーグル店
広島市内から車で北へ約1時間。都市からほど近い場所にありながら、深い緑に恵まれた北広島町。冬は雪質の良いゲレンデが多くの人で賑わい、神楽などの伝統文化も息づいているまちです。
四季の表情豊かな里山で、ベーグルショップ「Liand bagel」を営むのが池田裕一さん・沙織さん夫婦。東京でアパレルデザイナーとして働いていた二人は、第1子の妊娠をきっかけに裕一さんの故郷・北広島町へ移住し、異業種の飲食店に挑戦しました。
山あいにある店は土曜日限定の営業にもかかわらず、町内外から訪れる客で行列ができるほどの人気店。「わざわざでも訪れたくなる店」をつくり、さらには一棟貸しの宿も新たに開業した二人。その姿は、田舎暮らしに憧れつつも「どう生計を立てていけばいいのか?」と悩む人にとって一つのモデルケースといえます。
池田 裕一さん・沙織さん
自分のブランドを持つため、東京から広島へ
北広島町町出身の池田裕一さんと、長崎県出身の沙織さん。二人は東京に暮らし、それぞれ別のアパレルメーカーでデザイナーとして働いていました。「デザイナーも会社員なので、個人の思いより会社の意向を優先しなければならない場面も多くて。プライベートでは仲間と一緒に服やアクセサリーの展示会を開いていました。そこで彼と出会ったんです」と沙織さんは振り返ります。
「このまま東京にいても自分のやりたいことはできない。一度環境を変えて、自分の表現を突き詰めたい」という気持ちを強くした二人は、2012年に広島市へ移住。ほどよく都会でありながら首都圏より生活コストが低い広島市で、結婚生活とそれぞれのブランド活動をスタート。沙織さんは会社を退職せず、月の半分は東京で働く2拠点生活を送っていました。
事業資金も貯まり、東京へ再度戻ろうかというタイミングで第1子を妊娠。「東京で子育てをするイメージがどうしても持てませんでした」と沙織さん。裕一さんも「若い頃は何もない地元が嫌で都会に出ましたが、のびのびした環境で子育てができることを考えると、自然豊かな故郷で暮らすのもいいんじゃないかと考えるようになりました」と話します。
こうして2013年、裕一さんの実家の隣にあった納屋を改装し、北広島町での生活を始めました。しかし、沙織さんにとって新しい土地での出産と子育ては不安も多く、だんだんと心が塞いでしまったといいます。
そんなときに出会ったのが、町内の個人宅で開かれているパン教室でした。パンを焼き、子どもたちに食べてもらう時間が彼女の心を少しずつ癒やしていきました。そして、教室の先生から分けてもらった天然酵母が、現在のベーグルづくりにつながっていきます。
きっかけは「パン屋がほしい」というまちの声
時が経ち、第2子を出産。沙織さんは引き続き東京の仕事を続け、出張のある生活を送っていました。裕一さんは自宅の一室をアトリエにし、ウエディングドレスの制作や着物のリメイクなどを手掛けていました。
2020年、二人は縁あって町内の古民家を購入します。子どもに手がかからなくなったら、アパレルのアトリエショップを持ちたいと考えてのことでしたが、コロナ禍の影響で世の中は外出自粛ムードに。服を買いに来てもらえるような状況ではありませんでした。
そんなコロナ禍でも需要があったのが「パン屋」でした。「私たちが暮らす豊平地区にはパン屋さんがなく、地域の人からも『あったらいいな』という声を聞いていました。私自身も東京出張がなくなり、不安を紛らわせるために自宅でパンを焼いていました。すると彼が『パン屋をやろう』と言い出したんです」。
あくまで趣味の範囲で楽しんでいたパンづくり。沙織さんにとっては思いもよらない提案でした。しかし、「二人でコストや利益を計算していく中で、『できるかもしれない』という気持ちになっていったんです」。
ベーグルに的を絞った理由について、裕一さんはこう話します。「僕たちはもともとベーグルが好きで、全国各地の店から取り寄せて楽しんでいたんです。同じ生地でも、フィリングを変えることでラインナップを増やせるところも利点だと思いました」。
中四国や九州の有名店を巡って研究を重ね、沙織さんは“勝負できる味”を磨き上げていきました。同時に、購入した物件で製造と販売ができるよう、裕一さんを中心にリノベーションを進めていったのです。
製造と生活のバランスを考えた「土曜日のみ営業」
2020年10月、「Liand bagel」をオープン。当初は週3日の営業を目標にしていましたが、ベーグルづくりは酵母を育てるところから始まり、完成までに3日ほどの時間を要します。発酵の力に委ねながら、ゆっくりと生地を育てる時間も、大切な工程の一つです。
月・火曜日に仕込んだ生地は水曜日に、木・金曜日に仕込んだ生地は土曜日の朝に焼き上がるため、現在は店舗営業は週に一度、土曜日のみとしています。前日の夜中から焼き続ける製造スタイルです。水曜日は町内外のイベント出店や市内での委託販売、また通販やふるさと納税など、店舗以外での販売を行っています。
時間をかけてつくるからこそ生まれる味わいと、無理のない暮らしのリズム。その両方を大切にしながら、自分たちらしい営業スタイルを築いてきました。
裕一さんは「1日の営業で500個を売り上げるようになり、平日は製造に専念しています。一方で、日曜日は3人の子どもたちと過ごす時間を大切にしたい。今のスタイルは、狙ったというより“こうしかできなかった”という感じなんです。結果的に営業日が限られている希少性が来店理由の一つにもなったのは良かったですね」と話します。
来店客の7〜8割は、広島市内や隣接する島根県から。広島市内から車で約1時間というアクセスの良さも魅力です。「広島市内に納品するときも、『北広島町って意外と近いんですよ』とお客さまに伝えていました」と沙織さん。
「服」を「ベーグル」に置き換えて、アパレル時代の経験を活かす
アパレル業界からベーグル店と、まったくの異業種への転身。沙織さんは「当初はとても不安でした。でも、パン教室の先生から分けていただいた天然酵母がとても良いものだから、本気でやれば絶対においしいベーグルができるという確信もありました」と振り返ります。
また、会社員時代の経験が大いに活きているそうです。「何かをつくって売るという意味では、服もベーグルも同じです。どのターゲットに向けて、どんな素材を使って、どう発信していくのか。アパレル会社で企画やMD(マーチャンダイジング)に携わっていた経験が役に立ちました」と沙織さん。
オープンから5年が経ちますが、「ロスは一度も出したことがない」と裕一さん。「その時々の状況に合わせて、通販やふるさと納税も活用しながら、必要な分を丁寧に届けています。小さな店だからこそ、できるだけ無駄が出ないようにしています」。
店から広がっていく、人とのつながり
「Liand bagel」では、沙織さんと同じくパートナーとともに北広島町に移住してきた女性や、地元で仕事を探していた常連客がパートとして働いています。「田舎は雇用の選択肢が限られているのが実情。スタッフはみんな子育て中のママなので、子どもが急に体調を崩したときもカバーできる環境を整えています」と沙織さん。
豊平地区は、30〜40代の移住者が増えている地域でもあります。裕一さんは「僕たちだけでなく、移住者がそれぞれ個性のある店をやっていて、その存在をきっかけにまた移住する人がいる…という流れができている気がします。同世代の仲間が増えて、まちがどんどん面白くなってきました。一緒にイベントをしたり、うちでごはん会を開いたり、つながりが広がっています」と話します。
沙織さんも「店を通じてお客さまと仲良くなって、地域の情報を伝えることも多いですね。小中一貫校の豊平学園では地元事業者と子どもたちが関わる授業もあって、店を営んでいるからこそ地域との関わりを深めることができています」と言います。
一棟貸しの宿を開業。まちと人の「ハブ」になりたい
二人はベーグル店を含む一帯の古民家を購入。まずは離れにあたる建物を改装し、ベーグル店としてスタートしました。その後、母屋の改装を進め、2025年に一棟貸切の宿「FERMELL」として開業しました。裕一さんは「僕たち夫婦は、もともと人とつながることが好きなんです。北広島町の仲間と東京の友達を実家に呼んで、みんなでBBQすることもあります。ベーグル店もそうですが、ここが地域の“ハブ”になれたらと考えていて。宿なら泊まりがけで来てもらえるので、北広島町の魅力をより広く、より深く伝えられますしね」と話します。
田舎の古民家は、都会の物件よりも比較的安価に手に入れることができます。さらに大工である裕一さんの父や土木関係の知人の協力のおかげでリノベーションのコストも抑え、利用しやすい宿泊料金を実現。「お客さまがSNSに投稿してくれた動画が広がって、県外から20代のお客さまも増えています。若い世代が北広島町に来てくれるのがうれしいですね」。
「やりたいことはたくさんある」と裕一さん。「まだ手を付けていない蔵の活用も、コーヒーの焙煎所、ジェラート店、蕎麦屋…いろんな可能性があります。今はベーグル店と宿で手いっぱいですが、ゆくゆくは服やアクセサリーもつくりながら暮らせたらと思っています。地域の良いものを“デザイン”する人がまだ少ないので、これまでの経験を活かして、地域のプロモーションにもっと関わっていきたいですね」。
沙織さんも「同世代の家族が増えたらいいなという思いで活動しています。私もIターン移住者なので、都会から縁のない土地に越してくる不安はよく分かります。実体験を通じて相談に乗ることも、『田舎暮らしは楽しいよ!』と伝えることもできます」と話します。
彼女自身も移住当初、大朝地区のカフェ「cocoloya」を訪れたことが転機になったそうです。「北広島町でこんなに自分らしい暮らし方ができるんだ!と光が見えた気がしたんです。だから今度は私たちが、誰かの背中を押す番かなって」。
首都圏に比べて物件にかかるコストが低く、都市部とも行き来しやすい北広島町は、自分のやりたいことに挑戦しやすいまち。池田さん夫婦をはじめ、地域とつなげてくれる人々も心強い支えです。「暮らしを変えたい」「何かを始めたい」と思いながら都会で立ち止まっている人はぜひ一度、北広島町を訪れてみてはいかがでしょうか。