HIROBIRO.ひろしま移住ストーリー2021 〜先輩移住者からのメッセージ募集〜 HIROBIRO.ひろしま移住ストーリー2021 〜先輩移住者からのメッセージ募集〜

勢いで来たはいいけれど

特別賞
カリもっちさん
30代前半
東京都から移住
会社員(契約・派遣社員)

2015年、12月。
私は18歳から約6年半過ごした東京を離れて広島市内に越してきた。
特に何か目的があって来たわけではない。

『もう嫌だ。ここでこれからもこのままでいるのは嫌だ』

そう東京でひとり思った。
それが、ここへきた理由だった。

高校までは広島県の備後にある府中市の実家で過ごし、卒業後は東京へいった。
理由は、夢があったから。

子どもの頃から絵や工作が好きだった。
その中でも、兄妹が多いうえに学校嫌いだった自分にとって一番の居場所であり支えがマンガだった。
自分もいつかマンガ家になるんだ、と思っていた。

高校は単位制の定時制高校へ行ながら、美大予備校に通い、画材代や上京資金をためるためバイトもした。マンガを描いて賞に応募をして在学中にマンガ雑誌で担当編集者がついた。
それからの上京だった。

周りに「夢ややりたいことがあることはいいことだ」と言われても、
心の中では「違うそうじゃない」と思っていた。
「それ以外のために生きる理由がない」

一人で考え込む事が多く学校を休みがちな時期もあった自分は、これから自分が世の中でうまくやっていける自信がもてなかったから、
いつか大人になって、自分が大好きな漫画漬けの日々を送れている未来を思い描くことでしか、この先に希望を感じなかった。

上京してからは生活のためバイトを始めたり、同じマンガ好きな友達もできたりすると、
その中でずいぶん性格も明るくなって昔よりだんだん社交的になっていったけど
仕事をする上で嫌なことも度々ある中で、いつまた突然行けなくなるかもしれないという恐怖は常に消えなかった。

しかしその後、
本当に出来なくなったのはバイトではなくてマンガの方だった。

子どもの頃からの夢が実現に向けて形を変えようとする中で、徐々に自分の中でバランスを崩していった。

そのうちなにも描けなくなり
大好きだったマンガに向き合うことが徐々に苦痛になり、
そうなると自分が何をしたいのかが本当にわからなくなり、
ついには体調を崩し、

どうにか立て直したいとしていたが立て直せないままの生活がとうぶん続いた後、
「もう描けない」「自分はプロになれない」と開き直り、
心と身体と経済面の安定を考えて就職した。

正社員生活が始まると生活リズムや経済面は安定したが、就職した会社は自分に合わなかった。
『早く帰りたい』をという気持ちを原動力に仕事をして、
退社後は職場から駅まで走り、地下鉄にのり、家の最寄り駅についたらそこから家までも走って帰った(ヒールで)。

徐々に友達やバイト仲間とも疎遠になっていったし、フリーター時代から付き合っていた彼氏とも別れた。

後悔することも特にあるわけじゃない、ただほんとうに「自分は何にもなくなってしまったなぁ」と、そう思った。

ちょうどそんな時、
広島の安芸郡にすんでいる長姉の結婚式のため、久々に広島市へ行った。

子どもの頃、父の運転で家族で年に1度か2度きていた広島中心部の街。

田舎にいた自分にとって広島市は大都会だった。

でも、東京に住んでいる今の自分から見てみると、
あの時感じたような、建物と人ばかりのイメージではなく

山や川といった自然と街が、まるでお弁当のごはんとおかずのようにバランスよく存在している、そんなきれいな街に見えた。

自分と同じく東京からきていた次姉と街を散策しながら
「広島ってええね。東京出てこっちこようかな」
と私が漏らしたとき、次姉は笑って
「いいじゃん。来ちゃえ来ちゃえ」と言った。

 

そしてその約半年後の201512月。
私は仕事を辞めて東京を引き払い、本当に広島市内にひとりやってきた。

感傷に浸って嫌な職場から逃げたと言ったらそうかもしれない。と、今は思う。

が、そのときはただ、とどまる理由がもう何も見えないなか、嫌だ嫌だと思いながら現状維持を続けていく人生が怖くてもう耐え難かった。

しかし、高卒なうえ大した資格もなくペーパードライバー。
とりあえず登録制の日雇い仕事をしつつ就職先を探そうとしたが、ハローワークに通うこと2日目で
「毎日来ても仕事ないで」
と、職員の方に声をかけられ固まった。

東京のように仕事も交通機関もあるわけじゃない。
「特別やりたいこともやれることもない自分は、広島に来るべきじゃなかったかもしれない
ついそう思った

「そんなこと言ったら、ここに引っ越すにあたって関わってくれた人たちを否定することになるよ」

夜、不安になって母に電話をかけたらそう言われた。

誰かやこの街も否定する気なんてなかった。自分に対する弱音だった。
どこへいってもやれることもやりたいこともなにもない」

だからこそどうにかしたかった。だから来た。でもなにも見えない。
どうしようもない本音だった。
母も聞くに堪えなかったんだと思う。叱咤激励の叱咤をしたあと、
激励として
「なにもなくない。あなたには絵があるでしょう」
と私に言った。

その瞬間、自分の落ち込みが一気に怒りに変わった。電話をきった。
『自分にもう絵はない。
ーーーーって改めて言わすんじゃねえ!
どれだけどれが苦しいことだと思っているんだ!
2年投薬したんだぞ!知ってるくせに!無神経すぎる!』
投げたケータイが布団で跳ね返る。
またすぐつかんで怒りの指先で着信拒否にした。

そして広島に来て3週間ほどたった頃、運良く派遣社員としてではあるが事務の仕事が決まった。

実家には「生活が安定したらお土産持って帰ります」とかいた年賀状だけ出した。

職場は業務自体に特になにも不満はなかったけれど、2人で一緒に仕事をする同じ派遣の先輩からは高圧的で理不尽な態度をとられることがよくあり、常に緊張し、異常なわき汗をかきながら仕事をした。

正直すぐに辞めてしまいたかった。
広島で度々ごはんをおごってくれた長姉に「派遣なんてやめな」ともいわれた。

ただそういう言葉と向き合うと、反論するように自分の中で繰り返される心の言葉「自分にはなにもない」がそのたびにどんどん大きくなる。ここでまた勢いで辞めたらもう先はないと思った。

毎晩のように泣いて転職サイトを漁るのも、募集の条件を満たさないのも全て、元はといえば自分の責任。誰かに言ったところでむなしくなるだけ。自分は異常なほど甘ったれ。共感者は誰もいない。
だからといってそう諦めてみても感性自体は死なない。容赦なく自分に自信をなくしていった。

でも、

広島の夜、まばらに人が行き交う橋から見えるキラキラ光る川の水面や、
原爆ドーム、マンガ図書館。映画館の八丁座。路面電車、夕方6時に街に鳴り響く音楽。
そういったこの街の風景や空気に触れるたび
「やっぱ、広島って良いなあ」という思いが湧いた。ここから離れたくはなかった。

そんな日々が半年ほど続いた6月、
会社の飲み会の帰り道、別の部署の人たちに声をかけられた。
端から見ていても自分は先輩にいじめられているように見えたらしい。
「助けられないでゴメンよ」と言われ驚いた。
必要以上にびくびくしてしまう自分がずっとおかしいんじゃないかと思ってたけど、そういうわけじゃなかったんだと、すごく安心した。
みんな敵のように思っていたけど、そういうわけじゃなかった。現状は変わらなくても、それだけでもう、大丈夫なような気がした。

それと同時期に
姉夫婦に誘われてカープの試合観戦に行くことがあった。

私は普段野球を見ないから詳しいルールはよく分かっていないが、
子どもの頃からカープは弱いというイメージだった。

実際カープは自分が生まれた年を最後に25年間優勝からはなれていた。
その日もカープは相手チームに点を先取されて劣勢だった。
9回の表の時点で2点差をつけられた時
「今日はもう負けかもな」という声が聞こえて
自分だって同じ気持ちだったのになぜか心が痛んだ。
そう思われている中で戦って、結局本当に負けてしまうのなら見たくないと思った。

ところが、なんとカープは最後の9回裏で3点を取り返し、勝ってしまった。

逆転サヨナラホームランが向かいの客席に吸い込まれていったとき、

周りの観客があげていたのは歓声どころじゃない、叫びだった。
驚愕と大喜びのスタジアムのなか、
自分はなにが起きたのか理解できずに立ちすくんだ。

野球の試合で勝った。ただそれだけのこと。

でも、あの勝利の瞬間、自分の中で何かが変わった。

絶対に無理だと思っていた。でもそうじゃなかった。
そういうことが世の中にはある。本当にあった

自分にも、無意識で立ち上がってしまうほど高揚できることがある。

職場のこわい先輩はやっぱりそれからも相変わらずの態度を私にとっていたけれど、
周りがみんな敵に見えていた時と比べると、過剰にびくびくすることは減っていった。

そしてカープ観戦という素晴らしき日々の楽しみが増えた。

夏頃には、先輩からほとんど投げられていた業務内容に関してもほぼ自分一人でこなせるようにもなってきたし
次第にその先輩以外の人との交流も増えてきた。

そのうち、絵やものづくりが好きだったことを話したのをきっかけに、会社で扱う商品の訴求アイテム作りやチラシのイラストについても関わる機会が出来た。

ただそれは、元々事務の派遣である自分の業務の一環ではないことだったし、
やったところで自分が評価されて雇用形態が変わることもなければ、収入が上がることもない。
そして自分がやらなかったからといって特に問題もない。

しかしそれはむしろ自信をなくしてしまっていた当時の自分にとってはちょうど良いリハビリチャンスだった。
「自分はなにもない」という概念を打破すべく、4コママンガでも工作でも何でもたのまれたらとりあえず描いたし作った。
もう自分が作ったものを人に見てもらう機会はそうそうないと思っていたのでイエスイエスと受け、たまにペンをぶん投げながらやった。

自分が本当に投げ出さなかった理由は、頼んでくる商品担当者もしっかり意思をもって頼んできてくれていたからだと思う。
4コママンガをお願いされるときも、絵が不得意といっていたのに伝えたいことをネーム(大まかな下書き)にして渡してくれる。
構成を直してペンを入れたものを渡すと「魔法みたいじゃな」と喜んでもらった。

ある朝、そういったやりとりの中できたメールに
「○○さん(私の名前)は課にとってかけがえのない存在ですよ。」
とかかれていたときは、全身の力が抜けて、涙がとめどなく垂れ流れた。

そういったなかで、はじめて誰かと一緒にものを作り上げていくということをした。
サポートという意識でやっていたおかげか、恐れていたプレッシャーに押しつぶされて自滅するパターンには陥らなかった。

 

9月。

カープが25年ぶりの優勝をしたときは、どうしようもなく嬉しくて市内中心部に出た。
自分と同じように集まってくる人々もたくさんいて、本通りでそんな老若男女とハイタッチを交わした。
それから何日も、街の中はおめでとうでいっぱいだった。
こんなことって本当にあるんだな。と思った。

 

気づくといつの間にか転職サイトを見ることも、泣くことも減っていった。
それからまもなく連絡を断っていた親にも連絡をとった。

その後創作意欲を徐々に取り戻してゆくと、
年を追うごとに徐々にカープの試合をフルでみることもなくなっていき
自分はまさに世間で言うにわかファンとなったが、

間違いなくあの2016年、カープには言葉では言い表せないほど支えられた。

カープのその年の優勝パレードの時、人混みの奥に見える赤いバスに乗った選手たちに「ありがとう」と叫んだ。
埋め尽くすものすごい数の人も「ありがとう」と大声でさけんでいた。
そんなこの街が改めて大好きだと思った。

職場のあのこわい先輩とは結局、先輩が派遣期間を終えて去って行くまでの約2年半の間打ち解けることはなかった。
自分も派遣期間を終えるまでその職場で働き、期間が終わると、うちの職場の場合派遣からは嘱託でしか直雇用とならないが、その雇用形態で契約してもらい今もその職場に勤め続けている。

そうしながらも、
今まで自分が描いてきたものを元にポートフォリオを作成しHPや名刺を作って、
有償でイラスト仕事を受けてみたり
少しでもお金にならないかと、ラインスタンプをつくったり、オリジナルでグッズを作成してネット販売や雑貨屋での委託販売をしたりもした。

ただ、そうして挑戦してみたものの、色々うまくいかなくて
依頼を受け手の仕事や委託販売は今はもうしていない。

勤め人ではありながらも
自分はかなり放浪してまわりみちをしている気になる。

でもそうやってきている中で、自分が作品をつくる本当の目的がなにか見えてきたり、
やるべき事と不向きなこと、
案外できてしまう仕事のことなども分かってきた。

いつまでもあれこれしてひとつの道に絞らない現状を
色々言う人も中にはいて
自分でも確かに不安にはなるけど

いまは、自分のペースで自分が好きだと思うものを2度と失わないため
ちゃんと前を向いて生きられる人生というものを探っている最中のように思っている。

経済的にはいっこうに豊かにならず
質素な生活にも結構慣れてしまったまま今年30になって
「さすがにやっぱこのままじゃまずいよなあ…」と焦りつつ、
夜、家の近くの土手から見える静かな景色を眺めて
「でもこの街からは絶対離れたくないなあ…」と思う時、

そう思える街にいる今の自分がすごく贅沢なような気分になる。

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